金曜日, 4月 14, 2006

資料館問題と文化のクライテリア

書きたいネタはいくつかあるが…
以前、どこかで書いた気がするが。
(長い文章を一気に書いたので若干の飛躍あり。どこかで読み返して編集します。)

数日前、私が愛読しているblogの一つである、isologue氏のエントリで興味深いものがあった。

こ のエントリ自体は、フェア・トレードの話である。そして、これ自体、社会学的考察として面白い(isologueさんのような経済のプロには当然のような 話かもしれないが)。しかし、私は、このエントリを読んで、別の方向に、というか、表題どおりの方向でいくつかの示唆的な考えが転がっている気がしたの で、少し書いてみようと思う。

今回の私の主題は「資料館と文化」である。
 現在、資料館(博物館・美術館・文書館を含む)のおか れている状況は決していいものとはいえない。まず何より、資料館は、「金にならない」ことが問題とされている。そのため、資料館は、「金になる」イベント をやらされるだけとなり、「金にならない」研究・収集といった機能が失われかけているのが現状である。指定管理者制度なども、この「金になるかどうか」を 基準として、悪用されている面がある。資料館は危機にあるといえる。そして、歴史系研究者は、この動きに対してかなりの危機感を持っている。
 し かし、なぜか、比較的多くの歴史系研究者の資料館・文化財問題への議論は往々にして感情論に陥りやすい。特に「無条件で守るべきである」ということになっ てしまい、“なぜ”が欠落することが多い。この手の研究者に、“なぜ”を問いかけた瞬間、「お前は文化財のなんたるかをわかっていない」的 なレッテル貼りをしてしまうことが多い。この手の感情論は、状況を変化させない。
 そこで、エントリ内の話になる。

「状況を変化させるためには、「想い」だけじゃなくて、「戦略」や「ファイナンスの仕組み」「合理性」「関与している人も食っていけるsustainableな仕組み」が必要じゃないかと。」

というのは、isologue氏でなくても、多少ビジネスライクな人なら当然の提言ではあるかもしれないが、端的にして重要な提言である。

で、
---------------------------------
以前、ニューヨークのグッゲンハイム美術館がニューヨーク市の保証で債券を発行する時に作った分析レポートを見たのですが、

・当美術館が企画展をやることにより、○○○万人の集客が見込める。
・アンケートをとると、その○%はNY市外からの来客で、
・さらに、そのうちの○%は市内に宿泊して、ホテル税を支払うことになる
・それらの市外からの来客が、マンハッタンで落とす金は一人平均○○ドル
・結果として、当美術館がNY市に与える経済的波及効果は○○百万ドル
(→だから、NY市がこの債券を保証することは意味がありまんねん。)

というようなことが理路整然と書いてあって非常にびっくりしました。日本だと、美術館の館長というのは、学芸員とか大学の先生が偉くなって着くポジションというイメージがありますが、グッゲンハイムの館長はMBAですね。
「寄付する人には何の得にもならないが、とにかく寄付してくれ」ではなくて、双方win-winになるような提案を行える力、というのが、真の意味でNPOが目的を達成するために求められるのではないかと思うわけです。
----------------------------------
「双 方win-winの提案を行える力」は重要である。現在の日本の人文科学研究者はこの辺が弱すぎる。資料館や、文化財を保護するために、戦略や、合理性が 足りない。基本的に「譲歩する」ことが苦手な人種であることもあるかもしれない。(ちなみに、美術館・博物館の館長は、どちらかというと公務員行政職の 「あがり近く」の人が多い)

 この、戦略や合理性、実はつきつめていくと、私たちが抱えているかなり本質的な問題につきあたる。すこし、考えてみたい。
  資料館がisologue氏の言うように、資本でペイできる必要性があるかというと、私は必ずしもそうは思っていない。したがって、私は「資料館は金にな らない。もっとお金になる工夫が必要である」という議論自体は間違っていると考えている。無論、観光などで、資本が回収できるのであれば、それはそれにこ したことはないし、その戦略も立てるべきである。しかし、それは十分条件であって、必要条件ではない。
 「資料館は金にならない」論が間違ってい ると思う根拠は一つ。要は、投下した資本が、現金でなくとも何らかの形で回収されればよいのである。そして、その資本回収となるものは、今まで言われてき たように、“文化の普及・還元”であると考えてよい。とはいえ、話は簡単ではない。問題はここから先にある。
 つまり、“文化の還元”がどのよう な基準なら計れるのか、ということである。現在の資料館をめぐる状況では、資本が回収できたかどうか、まったく目に見えない。そのため、目に見える「金に なるか?」か、または、恐ろしく単純な「入館者数」で計られることになる。現状では、この数に反論のしようがない。私たちは、これらに反論できる目に見え る基準を持ってない。これらに反論するためには、私たちが、“文化の還元”のクライテリアを創らなければならない。実は、この基準作りが私たちに課せられ た課題であるはずなのだ。isologue氏の下記コメントにつながる。

「ただ感情的に「もっとフェアに!」と叫ぶのではなく、「フェア とは何か」をロジカルに定義して、しかもその要件が本当に満たされているか、後から監査可能な形な証跡を要求し、PDCA(Plan-Do-Check- Action)のサイクルを回せるようにしているわけです。」

 これを、資料館論に“すりかえて”言うなら、「ただ、感情的に「資料館を 守れ!」と叫ぶのではなく、「資料館とは何か」をロジカルに定義して、しかもその要件が本当に満たされているか、後から監査可能な形な証跡を要求し、 PDCA(Plan-Do-Check-Action)のサイクルを回せるようにする必要がある」という表現になるだろう。
 今の、私たち研究者 は、説明していない。資料館がもつ“文化”とは何なのか、を。そもそも、資料館は何ができるのかを。これを、ロジカルに、 かつ、PDCAのサイクル、少なくともCheck and Actionが働く形で説明できなければならない。その説明をすること自体が私たちの仕事である。
 戦略的には、これらが定量的に提示できる工夫 が必要である。文化を定量的にはかることは、難しい。また、人文科学系研究者が、“拒否するように訓練されてきた”ことでもある。しかし、説明するための 戦略としては、必要なことである。その戦略が立てられるようにならねばなるまい。この戦略性の訓練は、私だけでなく、人文科学系研究者が持つべきものであ るとも考える。

 資料館に直接携わらない人々が、資本を資料館に投下する。それは、“当然の行為”ではない。私たち研究者は、「双方 win-winの提案」を行わなければならない。それは、資本でのペイではなく、ほかの形でのペイでもよい。それがロジカルに説明できれば、資本は集ま る。そのためには、私たちが、もう一度、資料館のもつ文化性を考えなければならない。単純な「地域の文化財を守れ!」や、「地域の資料館を守れ!」は一切 通用しない。


 そして、この文化還元のクライテリアを提示することをつきつめていくと、私たち歴史学系研究者が“文化をどのように考えるか”につながる。
  今まで、歴史学では、これらの“文化”をロジカルに説明することはしなかった。理由は3つある。一つ目は、この“文化”自体が、ある種の「愛国心」や「愛 郷心」の道具に用いられてきたという過去をもつため、強い拒否感を持っていること。二つ目は、「地域の文化」は「人民の文化」として理解されたため、それ だけで無条件で肯定されるべきものであったこと。三つ目は、今までの研究者にとって、“文化”は所与の前提であったからである。しかし、現在の状況はそれ ほど簡単ではない。“文化”自体が、その中身を問われずに“日本古来の文化の優越性”のような議論にすりかわり、異様な愛国心に変わるような状況は避けな ければならない。現在の政治状況が単純に、そちらに向かっているとは考えてないが、“日本古来の文化”といった巷間にある議論は、どんどん人文科学の研究 の実態から離れていっているのは間違いない。しかし一方で、地域の文化は「人民の文化」とはいえない。“文化”は、階層に関係なく、あらゆる人々がつくり あげるもののはずだから。
 では、何なのか。現在、私に暫定的にいえることは、ただ、私たちの生きている社会をよりよく理解するためのツールであ る、としか言いようがない。理解することから始まることはある。まだ、ロジカルに材料を用いて説明はできないが…。これをロジカルに(かつ戦略的に)説明 できるようになるのは、 私の目標の一つである。説明できるようになること自体が、“文化財のもつ意味”の分析につながるはずだから。

長かった…肩がこった…

土曜日, 1月 28, 2006

某大学でのシンポジウム

テーマは、「古代遺跡の復元と整備」

結局、遺跡の「復元」はある歴史像の叙述でしかない。いかなる文脈においても語の正しい意味での復元なんてないし。
今回、そのあたりは前提にされて、そのうえでどのように復元していくべきか、という討論になっていたので、共感できた。そして、面白かった。
でも、落としどころは難しい。目指すところはなんとなく(私も含めて)みんないっしょなんだけど、その目指すところを実現するためにやることは、きわめて政治の世界なのでは、という気がする。その政治を誰が担っていくかとか、あまり幸せでない話をこれからやらないと。今日のメンバーはその辺の政治は好きそうではあるけど。